創業者の富田久三郎は、当時、高価な海外輸入品に頼っていた医薬用途の炭酸マグネシウムを良質で安価に量産するため、苦汁を原料とする製法の本格的な研究を静岡で始める。
同年、大葉樫から咳止め薬「ローリルケルス水」、「ローリル油」の製造販売するが、その売上利益の全てを炭酸マグネシウムの製法研究へ投資。
富田製薬の歩んできた131年。当時の貴重な写真とともに軌跡を辿ります。
今日までの長い歴史とさまざまな経験は、これからの挑戦への礎となっています。
苦汁調達のため、静岡県内を転居する。また、主原料となる炭酸ソーダの研究にも取り組む。
失敗を重ね出来上がった炭酸マグネシウムは目的としたものとは異なり、嵩が低いものであった。「重質炭酸マグネシア」として販売するも市場には受け入れられなかった。
製法の見直し、機械・装置の開発により、待望の純良品の炭酸マグネシウム製法を完成。酢酸・硫酸・硝酸・エーテルなども製造。
久三郎(28歳)は、大量の苦汁を求め十州塩田(瀬戸内海近辺)へ調査に出向く。当時の十州塩田地方では、海水から食塩を採取後、残った苦汁を海中に投棄していた。
静岡(気賀)の工場経営は量産に失敗し閉鎖するも、事業と研究は継続。
炭酸マグネシウムは英国局方、エーテルは米国局方を取得。
苦汁確保のため、静岡県(浜名)に天日製塩の施設を作り事業を開始するも、事業に必要な土地の確保、塩の価格暴落が本業の製薬業へ影響したため、中止。
事業が軌道に乗り始めた矢先、工場が全焼。機械だけでなく研究資料等も全て失い、事業中止。
十州塩田を再調査。十州塩田地方に製薬工場を設置することにより効率的に苦汁を確保できるとの結論に至る。
日本で初めて苦汁中の塩化カリウムの分離製造に成功。
久三郎は徳島県鳴門に移り住み、現:鳴門市瀬戸町に工場を建設。
京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出展。出展品目は、「炭酸マグネシウム」、「重質炭酸マグネシウム」、「硫化マグネシウム」、「硫酸マグネシウム」、「ヨウ化カリウム」、「臭化カリウム」、「臭化ナトリウム」、「塩化ナトリウム」。
石釜で海水を炊いて製塩する際の火床下の土(土居)から食塩を採取。含まれる硫酸ナトリウムを除去し精製した純良食塩を「日本塩」と名付け販売。
工場名を「富田製薬工場」と改称。
本5年間において研究開発し、製造許可を得た品目は「塩化バリウム」「カンフルオレーブ油注」「硫酸バリウム」「リンゲル液」「生理食塩水」「ビタミンB2注射液」「食塩錠」等、多岐に渡る。1947年には海人草エキスを有効成分とした駆虫薬「マクロン錠」を販売。
また、繊維工場からの副産物を使用し、1949年に無水硫酸ナトリウム、1951年には硫化ソーダの製造を開始。
7月8日に富田貞三郎を代表取締役とした「富田製薬株式会社」を設立。
※1946年に南海大地震、1948年に炭酸マグネシウム乾燥工場火災、1949年に食塩かん水精製場火災、1950年にジェーン台風など、昭和20年代は災害事故による被害が大きかった。
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